よろしくお願い致します。
昨今賑わしている、松本人志の性的同意の有無(?)人格否定についての話題。
人気芸人さんの事。
なんだか、もやっとしてしまった事もあるので書いておこうと思う。
とくに、私自身は松本さんには興味ない。嫌いでも、好きでもない。
それを、論じれるほど、観た事がない。
ただ、思い出したことがある。
幼き日、私はいじめにあっていた。
理由はいろいろある。
1、いじめやすかった
2、勉強ができなかった(あほ)
3、おしっこをお漏らしした
3は自分でも強烈な理由づけになると思う。
あほで、女性で、汚かったら いじめるわな。
男には男の求める女性像があるもんな。
でも、こちらにも言い分がある。
トイレの間隔がみんなより早いのだ。
何度も「トイレ」を授業中に言い出すほど、図太くはない。
感受性は人より強く、協調性も強い 言えない。「トイレ」などとは。
幼き日の日の私は勉強ができなかった、これには諸説あるが、勉強を「覚えるもの」として押し付けた結果で楽しく授業を行わなかった先生が悪い、と、思う。
楽しい事は続けられる。個人の興味から発生する知識欲は半端ないんだぞ。
わたしの興味を引き出す事が出来なかった奴ら教師の負けね。
あっと脱線した。
とにかく、それ(いじめ)を思い出した。
「すべらない話」
キム兄が女連れ込んで何にもならなかったことによる凍った鶏、投げつけ事件(正式名称あるのかしら)それを、おもしろおかしく笑う感覚。
自分の意に沿わないものなら、いじめてもよくて、それが正義なのだから、といわんばかりの感覚。それを、思い出した。
部屋まで来たのに夜をともに過ごさないのは自分の中にある「道理」を侮辱した
だから「凍った鶏」を投げつけて、正義を敢行した。
仲間たちは、それを笑うことで同調した。
違う世界で生きていて、違う「道理」があって、それが自分たちの「道理」ではなかったら「攻撃」しても許される。
そうして、それは、集団の中で発せられる。仲間内で、一人ではできない事象。
前提として「時効だから」とジュニアは言っている。
と、いうことは「世間的には」「おかしいこと」ということも知っている。
こどものころに受けたいじめを思い出した。
彼ら、もしくは、彼女らの理論の中で私はいじめられていた。
「あほだった」から
「いじめやすかった」から
「おしっこを漏らした」から
汚い、ばい菌と言われ、席を外された。
足蹴りされ、あおたんがなくなる日はなかった。
ぶつけられるゴミ
机にある消しゴムの山
周ってこない連絡用紙
掃除をするとほうきでごみを引っかけられる
捨てられた給食袋
入れられたカピカピのコッペパン
「勉強も出来ない、運動も苦手、追い打ちをかけるように、自宅は貧乏」
ほら、大人の価値観は子供にも影響する。
いじめていい対象でしょ?
主にいじめる、「男」というものを憎むと同時に、少女漫画に出てくるような「男」を求めた。
「恋愛」は「幸福になる」と信じた。
いつか、こんな自分でも見出してくれる人が現れる
やっぱり、それは「男」で、それを求めた。
いじめた男は「勉強ができなくて」「ぶさいくで」「家が貧乏」だった(一部例外あり)。
世間の価値観を自分の中にも取り入れてしまった(賢くて、裕福で、かっこよくって)彼らも、私も「不幸」だったと思う。
世間でいう下はさらに「自分」の「下」を求める。
「強きをけなし、弱きを笑う」パトレイバー 内海さんの言葉通り。
大人になった。結婚した男は「一流大学を出て」「世間的地位もあって」「上品で」「裕福な」男を選んだ。
仕事場も「世間に認めてもらえるような職場」を持った。
誰の価値を生きているのか、自分はいつまで自分の価値を持てるのか、自分の課題となった。
多分、彼らも一緒で(いじめた人々も、ある意味、そのときの吉本芸人も)。
気づけるか、気付けないのかの、違い。
認めるか、認めないのか、の違い。
誰もが、抱える何らかしらのコンプレックスを思い出した。
自分が生きていることは、誰かを踏んづけて、誰かを被害者にて、自分を加害者にして、自分も被害者にしながら生きているのかもしれない。
その時、その時の被害者はいて。
モテないってつらいね。持ってないって加害者になるね。
誰もが石田純一になりたいね。
いつまでも答えは出ないけど、自分の加害性を感じると、(下に見ている、金ない人を)目の前にいる人々を大切にする事を求めるのはいつか、出家しないといけないなって感じた。